「村上隆の五百羅漢図展」は体験できる事件だから、行っといた方がいい
去年の10月末から、六本木ヒルズの森美術館で「村上隆の五百羅漢図展」が開催されている。私はとっくに行ってたんだけど、このブログを読んでくれるような人は興味ないだろうなと思って、あんまり書く気にならなかった。
だけど先日、岡本太郎の『明日の神話』を見て、村上隆の五百羅漢図はこれ以上だよなと、改めて思った。『明日の神話』は渋谷駅の山手線改札から井の頭線への連絡通路に飾られている。何度も見てるけど、壮大なスケールの『明日の神話』は、凄いなんてもんじゃない。
『明日の神話』はメキシコで建築中のホテルから依頼を受けた作品だけれども、そのホテルの計画が途中で頓挫して、作品も未完成のまま放置され、行方知れずになってた。それが21世紀になってから発見され、日本で修復。どこにあるのがふさわしいかとなって、最終的に渋谷に設置されたというもの。テーマは原爆。
私は『明日の神話』を初めて見たとき、ピカソのゲルニカより強烈だと思った。もちろんゲルニカの方が絵としての完成度は高いけど、訴えかけてくる強さがぜんぜん違う。
なんで?
いやどうしてかって、うーんそれはデカいからかもしれない(笑) 冗談みたいだけど、大きさの持つパワーってものすごいよ。
ゲルニカは見たのはレプリカの展示だったと思うけど、ピカソ作品の中でも、訴えるチカラはダントツだ。でも『明日の神話』をじーっと見てると、そんなどころじゃない迫力がある。なんでって、そりゃデカいから(笑)
まじめな話、巨大な作品を作るのは画家にとって命を削るような作業で、その魂が絵に乗り移ったようなパワーを発するんじゃないだろうか。でなきゃ渋谷のハチ公前の交差点を見下ろすようなところに設置されてたら、絵が負けてしまう。
村上隆の五百羅漢図を、そんな『明日の神話』以上だと思ったのは、美術としての価値、歴史的な価値というところ。迫力ということなら『明日の神話』の方が上だろう。
村上隆の五百羅漢図は、絵に凝縮された、緻密さというよりデータ量が違う。絵の前に立つと、圧巻で口があんぐり開いてしまう。
この感じは、どんなに写真撮っても、写真じゃ伝わらない。あ、そうそう「村上隆の五百羅漢図展」は撮影OKなんです。
実は私、村上さんの作品に興味なかった。アニメっぽいテイストが、なんでアートなんだよ。あざといわと、ずっと思ってた。アメコミをモチーフにしたリキテンスタインは、好きだしアートだと思う。コミックは、ウォーホルのキャンベルスープ缶と同じだ。
村上さんの言うスーパーフラットはなんとなく理解できる。日本画に特徴的な遠近法は、西洋画の透視図法などとは異なり、ぼかしなどで人間の目で見て感じている遠近を再現してたり、右上に迫り上がって奥行き感を出していたりする。ただそれとアニメ的な二次元を一緒にしたってなぁという気がしてた。
でも実物の村上隆を見た段階で、それまでに思ってたことは、見事にどーでも良くなった。
五百羅漢図だけじゃなく、村上隆作品は例えばバックはデジタルで描いたドットのパターンを使い回してたりする。同じように使うんじゃなくて、同じシリーズの中ならそれらを組み合わせてズラして、色を変えて使っていたりする。これって明らかに日本画の手法なんだと思う。いわば文様。デジタルで作ったものを日本画的手法でアナログのニュアンスに変えてしまっている。五百羅漢は、アニメチックなテイストでそれぞれは平面的なのに厚みが感じられる。絵の中に回遊性もある。
とまあ、そんな専門家でもない私の解説は、どーでもいいんだけど、絵からいろんな情報がどばーっと溢れ出して、こちらは処理しきれない。唖然としてしまう。「村上隆の五百羅漢図」のテーマは、3.11の救済。直接的に3.11は感じられないけど、唖然とさせてしまうパワーは、魂の救済かもという気がしてくる。
しかも面白い(笑)
少なくともこれが日本の美術史に残るのは、間違いないですよ。「村上隆の五百羅漢図展」そのものが事件だから、行ける人は行っておいた方がいいと思う。3月6日まで、ですから。
かつて『芸術起業論』の中で、美大や芸術院会員や日展などの賞というムラの権威の仕組みを「ファンタジックな芸術論を語りあうだけで死んでいける腐った楽園」と言い放って、物議をかもした村上隆さん。もう腐った楽園だったことは、東京オリンピックのエンブレム選考の騒動でも、周知の事実になった。
「村上隆の五百羅漢図展」は、ムラからの反発に対して、どうだこのやろう。これでもまだ文句あるか!と叫んでるような気もする。